2019年5月17日 (金)

世界文学の横光大岡茂木(Yokomitsu Oooka Mogi of World Literature)

 世界文学の横光大岡茂木

 横光利一の『機械』は、心理主義という洋風仕立てになっています。そこでは、人間どうしの行為にまつわるその思いを、次のように述べています。「此の私ひとりにとって明瞭なこともどこまでが現実として明瞭なことなのかどこでどうして計ることが出来るのであろう。それにも拘らず私たちの間には一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを押し進めてくれているのである。」このことは、争いにあっても善悪の意識にあってもそうなのです。それゆえ、私たちにとっては善悪までも善である場合もそうでなくなる場合もあります。こうなりますと善悪は不定です。
 こうした善悪不定の波紋がトラブルの原型であります。それはひいては社会の混迷をまねくのです。重大な危機存亡にまでも通ずる可能性があります。この小説はそうした象徴描写でもあるのです。
  それならこの混迷を解消するにはどうすればよいのでしょうか。それは、『紋章』のテーマが学閥や独創と平凡のありようを追求しながら教えてくれるのです。(つまり、その根幹をなす横光特有の行動主義を)和洋折衷仕立てのこの小説が示唆するのです。
 「正義」というのは、固定「観念を離れた全く自由なある場所へ自分の精神を到達させる努力」であって、(「美しい」行為)であって、その結果が「僕の精神や想像力を美しくしてくれる」というのです。「僕の愛情とか正義とかいうような高尚なものは」このことから始まるのだといいます。(「日本の国にはマルキシズムという実証主義の精神が最近になって初めて入りこんで来た、」これに突きあたって跳ね返ったものなら、自由とはおよそどんなものなのかを知っている。「自由というのは自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることの出来る闊達自在な精神なんだ。」)また、人間関係の「断層から起る錯誤が絶えず縦横無尽にかけめぐっているとすれば、世の中の正確な判断とは、愛情以外のどこを頼りにするのだろう。」とも。
 横光はやがては、和風仕立ての『旅愁』で多神仏にして一神という平和主義を意図したマンダラの諸相を描きます。(そこでは、合理と非合理に霊妙な調和のあるのをみてとるべきだとされる。『紋章』のテーマの発展である。)仏神とは優れてありがたいことがらで、万象の美しい現象です。チロルの風物、ノートルダム寺院、上越の風趣、伝統の陶器、人為の親愛穏和、滑稽洒脱、等々です。人類共通の一神は、そこでのヒーローの書簡にも見るように「純粋無垢な愛情」です。
 だから、ヒーローが友人に語る一節です。「こういう歌が日本の昭和の時代にある、父母と語る長夜の炉の傍に牛の飼麦(かいば 飼葉)はよく煮えておりというのだ。こんな素朴な美しさというか、和かさというか、とにかく平安な愛情が何の不平もなく民衆の中にひそまって黙っているよ。」
 こうした人為的な神仏現象は、特に、夫婦愛のうちに澄明な相が『睡蓮』や『夜の靴』にも見られます。(茂木雅夫『横光利一の表現世界』『日本の夕映えに立つ』第三章7、8『花の変幻』評論「不滅の光『旅愁』」『日本文学の魅力』第五章 参照)
 大岡昇平の『野火』は、『孟子』『罪と罰』『こころ』などの系列にたちます。しかも、戦時の生死の極限状況においての小説です。敗残兵は飢えの極限にあってもしょせんは自ずと人肉には与れず、また、そのための殺人も許されぬのをリアルな新感覚で描いています。人間の食は天の与えてくれる生物だけなのです。(30野の百合と39死者の書の終局「あの夕日の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人であるならば…」との連関による示唆)『野火』にはレイテ島で敗残兵となった大岡の体験などがいかされています。(茂木雅夫『日本文学の魅力』第五章『日本の夕映えに立つ』第四章7 参照) 
 茂木雅夫の『花の変幻』は人間・社会・食・教育・歴史・芸術などの神髄を描き、評論が横光文学の意義を開示します。『日本の夕映えに立つ』はことさら美意識と心理的思想を描き『花の変幻』を敷衍化しています。
 例えば、その心理的思想描写の一くだりはこれです。「平和な文化やスポーツや戦略防衛などに連なるあらゆる分野において、ものをいうのは動と静における絶えざる厳しい鍛錬道である。これなくしては効果も喜びも和合もなかろう。この果敢な挑戦こそが次郎の考える大和魂である。今日の文化の永続はまさしくここに通ずるはずなのである。」(第五章6)
 『みずほの国』は同様な意図が漢文小説として形象化されていますけれど、同時に日本語の深浅軽重にして自由自在で深遠な機能価値も認識できます。

(霊妙な関わり合いを要するその自由主義・平和主義・社会主義、この各々の精神の極限を巧みに形象描写したのは既述の『紋章』『旅愁』『野火』なのです。関連 『日本の夕映えに立つ』第一章7第二章8『みずほの国』3、13)こうして、(人類社会はしょせん生かし合いです。ならば、この極限からして、戦争のごときは厳禁です。関連 『日本の夕映えに立つ』第一章2第三章7第四章7『花の変幻』小説「爽やかな曙光」「若輩」「家族」評論「不滅の光『旅愁』」)

2016年4月 8日 (金)

日本文学の深遠な世界的意義ー日本文学の魅力(価値)考

日本文学の魅力考など   茂木雅夫

 横光利一の『旅愁』は、雅友の『横光利一の表現世界 日本の小説』などによれば、森羅万象を多神仏(諸相の優れた統一性)にして一神仏(そのさらなる統一性即ち人類共通の優れた美意識とこの相)が統一するというマンダラを主に描きながら、そこに一神仏(純粋無垢な美意識と愛など)をして人類社会の平和主義を開示している。このことはそれなりの描写箇所、東野の宗教観(旅愁第四編)、矢代の千鶴子宛書簡などが証左する。雅友の『日本文学の魅力』は、主としてそのマンダラのそれなりの箇所をして、近現代文学に横光『旅愁』の意義(価値)を大きく位置づけている。
 『日本文学の魅力』では、『源氏物語』(正編)を美意識に左右されながらもそこではしょせん人道的な愛が追求されると見なす。(このことは主流と「夕霧」【一夫多妻制での困惑】「まぼろし」【紫の上への追懐】が証左する。なお、「柏木」のごときは男女のありようをリアルに示唆してそうした後代小説の先駆をなす。)いわゆる新視覚のテーマ論である。源氏を主人公にして彼の理想とする(優れていて美しく大らかでいて奥深い【人情の機微を解せて教養のある】)紫の上を配した韻文物語の意図は、一夫一婦への志向も暗示するほどに、柔らかく善良な愛へ帰着していく。つまりは、人生の破損はモラルのいかんにあるともいえるのだ。『平家物語』の意図は空に乗じて奢りを捨て(「敦盛最期」)積善を貫く(「小教訓」)というにある。『徒然草』は『源氏物語』の気の利いた思想を受けとりながらも、なかでも例の負けまいとして勝つの心得が独特な意義をもつ。これこそ身を治め国を保つ道である。近現代では、人類の平和主義に立脚して万象の真と善美を追求した横光文学が避けては通れない存在である。『旅愁』第二編で矢代(自然科学は尊重するものの空なる万象に合理と非合理の霊妙な調和をみてとる)の話す「ただ僕らに一番不思議なことは、科学という合理性(霊妙ではなく過激な合理主義)が文明を起こしてはまたそれを滅ぼして他に移っていくことだよ。三段論法は結局は人間を滅ぼすのだ。」も、万物のそれなりのよりよい秩序のための人類滅亡に拮抗した思想である。大岡昇平の『野火』は、飢餓の極限状況にあった敗残兵をして、そのリアルな新感覚描写によって、そこに人間の共存性を表現する。そのことは「30野の百合 39死者の書」が証左する。文芸によるエネルギーのいかんは内面形式のなすところだという、この横光文芸論『文字について』は、評論史上最も画期的である。文芸はドラマに資するもこれとは似て非なるものである。庶民的で味わい深い近世散文や日本文学の特有でかつ意味あいの深遠な韻文も、他と同様に、世界に誇れる優れた文学である。国学者の上田秋成が怪異小説家でもあるのは、彼の『菊花の約』が社会秩序の根幹にかかわる浪漫的現実主義の特異な文芸だからである。それに、日本漢詩では、新島襄のが刮目に値して(究極における人道上の先駆けと政治家の姿勢)格別にあつかわれている。
 雅友の『花の変幻』は人間・社会・食・教育・歴史・芸術などの神髄いわば日本マンダラの深奥を描き、とりわけ「花の変幻」「生涯」は人生の斜陽に拮抗する。『美の深奥 花の変幻』が敷衍化しているといえるのは『日本の夕映えに立つ』である。(肝要かつ意味深長にして「次郎の決意と咲子」と「花の変幻」《例えば、和食の肝心、画一主義の不成立》なども連なる。)これらの三部作の『みずほの国』には人生の生きざまと若者の活力が期され、かつ、漢字表現の威力が発揮されている。
 幅広い視野に立脚せざるをえないが、雅友のブログは、横光文学と大岡『野火』への不滅論・言・韻文などはもとより、宗教へも言及する。憲法・横光の微笑のそれぞれの項には、終戦の御詔勅、人類の滅亡に拮抗なさった、いわゆる負けるが勝ちの世界に誇れる日本の真実が、御威光となって差しこんでいる。また、横光利一『睡蓮』と『微笑』は、この内容だけではなく、その日本文学の鑑賞批評というものの核心性へも一考を要されることになろう。

 【文化の源泉として日本語日本文学は光輝であるべきである。】

2016年3月13日 (日)

横光利一『旅愁、機械、上海、睡蓮、夜の靴、など』雅友の『花の変幻、日本の夕映えに立つ、みずほの国、など』

横光利一文学及び日本文学者・作家の茂木雅夫

茂木雅夫(もぎまさお)は1936年茨城県手賀に生まれる。農業を経験した後に上京、作家を志望して早大文学部日文卒(昭35)。横浜の聖光学院教諭として(35~平12)更新免許高一級国語取得のため同国文聴講生(昭36)同大学院日文特殊学生(40)修了。〈司書教諭資格取得(63)〉。作家を後半生に期し同教職を兼ね都立大大学院(昼夜開講制)修士課程国文修了(47)同博士課程国文論文を除く規定単位を取得して退学(50)。著書に『日本文学の魅力』『横光利一の表現世界 日本の小説』『論語老子等読本』『みずほの国』『花の変幻』『日本の夕映えに立つ』など単行本十種以上がある。日本大学(大学院)芸術学部にあって非常勤講師として教職の国文学・国語科教育法などの担当に専念した(平6~24)。

横光文学においては、『愛の栄光』『笑われた子』が小学、『蠅』『機械』が中学、『慄へる薔薇』『睡蓮』が高校の教材にふさわしい。『紋章』などの行動主義の立場から『機械』をあつかい、武士道精神のデメリットをすくう。『慄へる薔薇』は物質の豊かさを肯定しながらも、人間が物質のとりこになってしまうのだけとは一線を画している。

茂木雅夫の『日本文学の魅力 横光文学の位置』は、作品の再現と引用・鑑賞批評・研究・文学史などからなる。日本文学全体をあつかっている。副題を付したのは近現代にあって自ずと横光文学がめだったからである。古代から近現代の対象作品には、特有な日本語によった世界に誇れる秀抜なのが多い。

横光文学は構成の、和洋独特な『日輪』『蠅』『碑文』『花園の思想』『機械』・洋風特有な『上海』『紋章』・和風霊妙な『旅愁』『睡蓮』『夜の靴』『微笑』などで小説らしい小説を開示している。日本文学はこの横光をさけて通ることはできない。(拙著『横光利一の表現世界 日本の小説』『横光利一 近代小説の存亡』)

『機械』では、闘争の原理を心理的写実をして象徴的に描出している。この原型の放射するところは、いわば幕末から明治維新の内乱あるいは南京事件にまでも及ぶ。その原理を解消するのは行動主義であり、これを展開する描写が『紋章』である。罪悪感の自滅を強いるのも思いこみの混迷をまねくのも機械のように機能する個人意識のせいである。そうしたことがらを平穏に帰させるのは良心によるドライブ主義である。関連『日本の夕映えに立つ』(第三章7)。

『旅愁』『睡蓮』『夜の靴』などが日本文学を代表するのはいうまでもない。横光特有の象徴主義は、それらの写実主義にあってもそれなりにいかされている。『上海』や『旅愁』にみる世界的な平和主義は客観的な世界史認識に基づいている。関連『花の変幻』(不滅の光『旅愁』)。日清日露戦争以降の日本と外国の動静に注目してもこのことは明白である(瀬川秀雄『世界通史』)。『睡蓮』や『夜の靴』はそれなりに人間性の究極の美を展開している。それに、『旅愁』では、古神道じたてなどをして森羅万象の動静を多神仏(優れた統一性)にして一神仏のつかさどるところとみなし、かつ、ここからも平和主義を示唆している。そこでは、それなりの真善美が展開するのだ。関連『日本文学の魅力』(第五章)。

茂木雅夫の『花の変幻』は、小説が人間・社会・食・教育・歴史・芸術などの神髄いわば日本マンダラの深奥を描き、評論が横光文学の意義を開示する。とりわけ、「花の変幻」と「生涯」は人生の斜陽に拮抗する。

『日本の夕映えに立つ』は、『美の深奥 花の変幻』の敷延化である。(「次郎の決意と咲子」【例えば、米・大豆・茶を主とした和食の肝心《バランスよくほどほど、老体ではなおさら》、さらには天候・米・生命体機能などの条件、また、これらのいかんによるマルクス主義等の不成立という比喩表現】と「花の変幻」なども意味深長である。)叙情表現云々はもとより、人生の価値とこの追求、活気と生産的な生きざま、教育と学習および政経と各種文化のありよう、日本文学と芸術の粋、戦いに抗する人間性と歴史、若き悩みの解消などと、さまざまな光が陰影をまとって差しこんでくる。

『みずほの国』は、漢文法に則った、小説の日本漢文である。人生の生きざまと若者の活力が期されている。また、自ずと日本語における漢字の威力が発揮されている。


《若者よ爽やかにいきいきと生きよ、天運(命)に乗じて我思う故に我ありと。何かと教えられることも、自分自身が苦労してそれを実現したり実践したりしてみて、真に理解を得るなら、この喜びと興味とによって道は新たにも開けていくであろう。》
『対訳 論語老子等読本「荘子」』(茂木雅夫編著) 「十日たってからまた、闘鶏にしたてている鶏のことを聞いてみた。…やはり相手をにらみつけて勇み立っていますと言う。十日たってまた聞いてみた。すると、ほとんどできあがっています。相手の鶏が鳴いても動揺しないのです。それを眺めると、まるで木鶏のようです。その品格ぶりは完全です。(特に木鶏というよりは要するに心と動静とのバランス)(実態を冷静によくみきわめる)」

『横光利一 近代小説の存亡 第三章七より』(昭和51、茂木雅夫)「栄養失調や疲労とあいまって日照を遮られがちな都会生活は、人々の不安をおさえているはずの強い信念をも鈍らせてしまう。とくに、食の貧しさはいらいらとした乱れとこの苦しみをかきたてさせずにはおかないであろう。じめじめとしたスラム街に一人ごとをつぶやく人々が多いのは日差しの少ないのとCa類の欠乏した偏食のせいである。」

(宜しく、日光を浴び睡眠をとる。)


横光利一『睡蓮』と『微笑』、デモと不動心、自衛隊と抑止力

横光利一『睡蓮』と『微笑』(不動心と抑止力)

        茂 木 雅 夫



   はじめに
 これらの作品では、象徴表現が功を奏している。文豪横光の観念が特に『微笑』では新感覚によって具象化されている。その観念こそ、山崎国紀氏の評言する、横光の苦闘の歴史は大正から昭和にかけての「日本文学の重要な性格形成を担うものであった」(『横光利一論 飢餓者の文学』)の、その性格である。換言すれば、横光の追求した、空における合理と非合理の霊妙に関わる真と善美である。
   『睡蓮』について
 作品の主眼は、作者の「私」が不慮の死にみまわれた加藤高次郎氏の遺歌集を読んでいくところにある。もちろん、しょせんその和歌は横光の創作である。高次郎氏は刑務所の看守人で剣客でもあった。
 高次郎氏の歌を読んでいくと、「どの歌も人格の円満さが格調を強め高めているばかりではない、生活に対して謙虚清澄な趣きや、本文を尽くして自他ともどもの幸福を祈ってやまぬ偽りのない心境など、外から隣人として見ていた高次郎氏の温厚質実な態度以上に、はるかに和歌には精神の高邁なところが鳴りひびいていた。」しかも私には、高次郎氏がそうした合理非合理の霊妙に関わる清澄な行為から、さらには限りなく透明な境地へと達していくのがわかるのである。
 高次郎氏は苦業を求めるのを忘れまいとする。また、そうした日々でありながらもつつしんで命を大切にしようとする。さらに、鍛錬のうちに揺るぎない自信を得ようともしている。このことは、
 「生きの身をくだきて矯めよ囚人の心おのづとさめて来たらむ」「己が身の調はざるか人の非にかくも心のうちさわぎつつ」こういう歌にみられる。
 『
「上官のあつきなさけに己が身を粉とくだきて吾はこたへむ」
 この歌も高次郎氏を思うと嘘ではなかった。私はこのような心の人物の一人でも亡くなる損失をこのごろつくづくと思うのだが、上官に反抗する技術が個性の尊重という美名を育て始めた近代人には、古代人のこの心はどんなに響くものか、私は今の青年の心中に暗さを与えている得も云われぬ合理主義に、むしろ不合理を感じることしばしばあるのを思い、私の子供にこれではお前の時代は駄目になるぞと叱る思いで』あった。
 こうした合理主義は人間性を蔑ろにして、上官と自分は同レベルだとする錯覚である。上官には、たいがいは、貴重な経験とそれなりの品格があるはずである。理不尽な暗い反抗は上官からの賜物を損なうのだ。
 個人主義は人間性の尊重によった合理と非合理の霊妙な関わりから成り立つ。この関わりは、人々の自由と平等のありように資するのと同様であろう。そこでは自他ともに多角的なみかたを要するのだ。
 われわれの錯覚行為は、世間を不安におとしいれるような大がかりな事件にまでも波及する。われわれは、錯覚的な合理主義や理想とはいえがたい非現実主義などを偉大なものとしてまつりあげ、このためのデモをひき起こす。歴史と現実を冷静に理解せずに非現実的なデマを盲信する。そうして猪突猛進をする。ましてや修正には応じない。こうした恥辱行為を正当化して、これが破壊行為や自滅へと連なっていくのだ。それはまるで、人間が境遇の変わったとたんに、まだ経験が浅いにもかかわらず、いつとなくその境遇をいいことにして錯覚的英雄になりすましてしまうのと、根元を一にしているかのようなのである。
 次の歌である。この歌の睡蓮によって、高次郎氏の師匠は遺歌集の題を水蓮としている。
「移されしさまにも見えずわが池の白き睡蓮けさ咲きにけり」
 歌集の巻末で師匠は云う。加藤君の感慨だったが、睡蓮は水蓮としての性を発揮して可憐なやさしい美しい花を開く。これによって加藤君は人生をいたく教えられたのだと。その水蓮は刑務所の池へ移されて来ても、かわるところがないという。加藤君は「人間であればいかなる偉い人でも、刑務所へ移されると態度が変ってしまう。それなのに水蓮は移されたことも知らぬ顔に咲き誇っている。なんたる自然の偉大さであろう。出来得べくんば自分もこの水蓮の花のように、如何なる事件に逢おうとも心を動かすことなくありたい」と、こういう心境に悟入したのである。
 濁りを絶えず浄化して、本来の性を発揮する。それが睡蓮の花である。根があり茎もあって花を咲かせる。そうして、よく見ると静かに純白の光をとどめている。その様子はいかにも純粋無垢で優美なのである。
 睡蓮の歌は、上官のあつきなさけの歌に呼応している。そのことは、いかにも意味合いが深く、新感覚の秘技によっているといえよう。
 遺歌集の最後の二首は「円熟した透明な名残りをとどめている。」
「しののめはあけそめにけり小夜烏天空高く西に飛びゆく」
「大いなるものに打たれて目ざめたる身に梧桐の枯葉わびしき」
 高次郎氏は不動の清澄透明な境地をみいだし、そうして円熟した透明な境地に達している。このみずみずしく喜ばしい美しさからすれば、梧桐の一時の枯葉までがわびしく見えるという。生きの身が枯葉同然になっては困るのだ。彼は崇高な境地を追求して、まさにそれが生きがいとなっているのである。
 高次郎氏の事故死は、自分の歌集を清書し終えたその夜の帰途のことである。「一度は誰にも来る終末の世界に臨んだ一つの態度として、端座して筆を握り自作を清書している高次郎氏の姿は、も早や文人の最も本懐とするものに似て見え、はッと一剣を浴びた思いで私はこの剣客の去りゆく姿を今は眺めるばかりだった。」
 伴悦氏の『横光利一文学の生成』は、横光とその文学の生成を精密に実証し横光文学の意義を解明している。したがって、「睡蓮―高次郎の死と漢口」でも、緊迫した戦時に対する横光の平和主義の姿勢が究明される。そこにおいて、伴氏は評言する。横光の『「文学窮極の目的」として再確認した「写実的象徴」という小説は、やはりこの作品を読み解くための大きなキーワードを示唆するものであったといえよう』そうして、『「白き睡蓮」の歌が象徴的に絡んできて、作品の密度をいっそう高めているのである。が、内容的には「私」の口を介して淡々と語られているようにみえて、かなり企図的に、しかも重層的かつ多岐的に仕組まれた含みのある作品のように読めることである。』
 『睡蓮』は、日本特有の象徴文学、もっとも新感覚的構想が秘められているともいえるけれど、これの展開する和歌の配置、それと対比する横光表現が主眼となって、深遠な作品となっている。人間性の美しい根源を展開している。また、そうした要素が、横光の評論『文字について―形式とメカニズムについて―』でいう内面形式に相当するのでもある。

   『微笑』について
 文豪横光に傑作『微笑』(昭23・1『人間』)がある。ここでは、直感の真実として、神(心のうちの優れた統一性)によって容認されるものがある。人類のための善人によるいわゆる悪魔に対する抑止力のことである。数理上の零に対峙する直感真実の零の現象を描きながら、そこから生まれ出た新武器という抑止力へ横光の主眼が向かっていく。また、神はその零のような存在でもある。つまり、作品は非武装ではなく正当防衛による善人の平和主義を示唆するのである。
 ここにおける写実的象徴表現には、『睡蓮』とは対照的といってよいほどに、外国文学を溶解した横光特有の日本的な新感覚がどことなくめだって機能している。
 この機能は、横光文学と外国文学の関連を詳細に証左した小田桐弘子氏の評言にみる。「横光ほど新しく紹介された翻訳文学に飛びつき、真剣にふりまわされ、自分の作品に組み入れ、しかも、実に、恣意的な読み方をした作家はいたであろうか。」(『横光利一 比較文化的研究』)その恣意的に「自分の作品に組み入れ」をしたという新感覚である。
 いわば、『微笑』の終局における一文、「微笑というものは人の心を殺す光線だという意味も、梶は含めて…」の配列の仕方と表現である。そこでの「人の心を殺す光線とは」棲方への疑念を解消する意ばかりではない。戦禍をもたらす悪心をもしりぞけるという抑止力のことを示唆するのである。
 『微笑』の意図に関してである。神谷忠孝氏は『微笑』について、この作品は人間性と科学のありようを描くとしながら次のように評言する。横光には自己に忠実な「覚悟があり、現実をあるがままにみつめようという作家姿勢がある。戦争の悪がわかりながら祖国の勝利を願わずにはいられないという絶対矛盾に直面したときの身の処し方を書こうとしたのが『微笑』であり、他の文学者が避けて通る困難な道に踏みこんだ、横光利一だけが書けた作品ということができる。」(『横光利一論』)
 『微笑』では、殊に、排中原理(相反するABの判断があるときこれ以外のCの判断はありえない)の数理上の空虚な零と対峙して、直感の真実における零すなわちこの現象が象徴的に描写される。その主眼は新兵器という抑止力のことである。そうした直感の真実には、合理非合理すなわち理性と感情が霊妙に関わっている。排中律が正されるのもこの真実による。そうして、万象の発明発見にも異に直感の真実がものをいう。しかも、直感真実の零という秀抜な統一性はいわゆる神でもある。こう考えられるケースがある。
 今日の科学からすれば、森羅万象における質量のある物質界には、実際には無なる零が存在しないであろう。なぜなら、そこには質量ばかりが存在するからである。だから無なる零は数理上のものである。横光のいう直感真実の零とは違うのだ。
 文人の梶が俳人高田から紹介された弟子の棲方は、帝大の二十一歳になる数学専攻の学生であり、また横須賀海軍の研究生でもあった。終戦に近いころだが、彼は勝利に係わる絶対確実な武器の仕上げにとりかかっていたという。そうして、梶には棲方のその仕事に対して違和感を覚えても、この邪心は棲方の美しい微笑によって解消させられてしまう。
 ただ、それにしても、梶は戦後に終戦の報と同時に故人となってしまった棲方については、『彼の云ったりしたりしたことは、あることは事実、あることは夢だったのだ』と、思い返したのである。
 棲方の生前のことだが、彼によれば、零には置きどころというものがある。数理上ではなく直感の零があるからである。いわば、船体の曲がり具合のところも、直感の零の位置に従えばもっと速さが出るというのだ。
 梶はさらに棲方に排中律のことを訊いてみると、彼は、前方の棚の上に廻転している扇風機を指差して、中心の零から一瞬見えるところまでの距離は数理上のと違うと示唆する。つまり、彼は排中律にはこだわらなかったのだ。
 「その手で君は発明をするんだな」と、私が棲方に問いかけたように、彼が秘密兵器の光線にとりかかったきっかけも、そういう真実からである。零なる根源この直感の真実によったのだ。
 電車の下っ腹から火が噴いていたのと、このせいで自宅の聞こえなくなったラジオのぼッといっただけの音、この両方の零点とを結びつけてみて新兵器を考え出したという。
 梶は棲方の行動についてはとりわけしばしば思う。だが、こういうときもある。『すべて真実だと思えば真実であった。嘘だと思えばまた尽く嘘に見えた。そして、この怪しむべきことが何の怪しむべきことでもない、さっぱりしたこの場のただ一つの真実だった。排中律のまっただ中に浮かんだ、ただ一つの直感の真実は、こうしていま梶に見事な実例を示していて、(略)「見たままのことさ、おれは微笑を信じるだけだ。」と、こう梶は不精に答えてみた』
 梶は嘘か真実かと直感の真実に翻弄されながらも、棲方の微笑を思い出すと、怪しみのなくなるさっばりとした直感の真実に立つ。数学上の排中律ならこういう中間の判断はない。排中律の零には意味がないのである。
 しかしながら、また、梶はさらに迷う。棲方のは祖国を救う新武器なのか、それとも悪魔の悪用する新武器となるのかと。またも新たな排中律が詰め寄ってくる。すると、棲方の『ことなどどうでも良くなって』くる。彼の仕事を越えた次点に立つ。人間の作り出してしまう文明の武器を越えた直感真実の零時点に立つ。
『「その君の武器は、善人に手渡さなきァ、国は滅ぶね。もし悪人に渡した日には、そりゃ、敗けだ。」と、何ぜともなく梶は呟いて立ち上がった。神います、と彼は文句なくそう思ったのである。』
 このような二人の問答では、棲方も「そうですよ。監理が大変です」と応じていたのである。
 梶のいわゆる直感の真実には神が存在する。良心の統一性がある。排中律の中間にである。その新武器が善人のものなら神のしわざとなるのだ。
 ある日、棲方は梶を訪れ、一度御馳走をしたい、水交社でと云った。水交社は海軍将校の親睦と研究の団体である。途中の渋谷の駅では、棲方は自分と同じ同僚を目撃するが、先方は外方を向いてしまう。
 『「もう僕は、憎まれる憎まれる。誰も分かってくれやしない。」と棲方はまた呟いたが、歩調は一層活発にかっかっと響いた。並んだ梶は棲方の歩調に染まってリズミカルになりながら、割れているのは群衆だけではないと思った。日本で最も優秀な実験室の中核が割れているのだ。』
 『戦争は終わった。棲方は死んでいるにちがいないと梶は思った。(略)ある日、梶は東北の疎開先にいる妻と山中の村で新聞を読んでいるとき、技術院総裁談として、わが国にも新武器(略)が完成されようとしていたこと、その威力は三千メートルにまで達することが出来たが、発明者の一青年は敗戦の報を聞くと同時に、口惜しさのあまり発狂死亡したという短文が掲載されていた。疑いもなく棲方のことだと梶は思った。』
 梶には、棲方らと別れた『横須賀の最後の日が映じて来る。』その駅で、『
「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから、お元気で。」
 はっきりした眼付きで、棲方はそう云いながら、梶に強く敬礼した。どういう意味か、梶は別れて歩くうち、ふと棲方のある覚悟が背に沁み伝わりさみしさを感じて来たが、―』
 ここでの覚悟は終戦を余儀なくされるかもしれないという棲方の思いによるであろう。
 棲方の話からすると、彼は学長につきそわれて宮中へ参内したという。陛下から「御質問」があった。そうして、「おって沙汰する、と最後に仰言いました。おれのう、もう頭がぼッとして来て、気狂いになるんじゃないかと思いましたよ。どうも、あれからちょっとおかしいですよ」
 こういう叙述があった。もしかして、陛下に内密で海軍は新兵器を造らせていたのではあるまいか。棲方はこのことを初めて知ったのであろう。棲方が死への不安を口にするところもあったからだ。それに、新兵器のことは悪魔に知られるわけにはいかないであろう。
 陛下は大東亜戦争中に原子爆弾や新兵器の開発を時の首相らをして中止させなさったという。(IT、「いまこそ目覚めよ 天皇の真実─昭和天皇未曾有の大遺徳」)それにもかかわらず、海軍は終戦まで、密かに新兵器マイクロウェーブの開発完成の途上にあった。(IT、「マグネトロン」なお、湯川秀樹とアインシュタイン)さらに、このことへ終戦の詔勅を重ね合わせると、『微笑』という作品のもつ現実的真実が浮き出てくる。これも新感覚による秘技である。こことの関連では、『花の変幻』千鶴子宛書簡、『日本の夕映えに立つ』第四章宇宙と人類、など。その玉音放送の内容については、茂木雅夫のブログ「『微笑』の秘技」を参照。
 東京へ戻ってきてから、梶は話題に気乗りのしない高田に言った。『「けれども、君、あの棲方の微笑だけは、美しかったよ。あれにあうと、誰でも僕らはやられるよ。あれだけは―」
 微笑というものは人の心を殺す光線だという意味も、梶は含めて云ってみたのだった。それにしても、何より美しかった棲方のあの初春のような微笑を思い出すと、見上げている空から落ちて来るものを待つ心が自ら定まって来るのが、梶には不思議なことだった。それはいまの世の人たれもが待ち望む一つの明晰判断に似た希望であった。それにも拘わらず、冷笑するがごとく世界はますます二つに分かれて押しあう排中律のさ中にあって漂いゆくばかりである。梶は廻転している扇風機の羽根を指差しぱッと笑った棲方が、今もまだ人々に云いつづけているように思われる。
「ほら、羽根から視線を脱した瞬間、廻っていることが分かるでしょう。僕もいま飛び出したばかりですよ。ほら。」(この表現は、棲方が「私」に排中律のことを訊かれ、扇風機をしてそのことにふしぎな答え方をしたときの、一連の流れのところと呼応している。ここでの新感覚的な比喩には、森羅万象にあって若い棲方も新発明も生まれ出たばかりという両意がかけられている。)』
 棲方の微笑は疑念ばかりか悪魔のような悪意までもしりぞける。彼の微笑を思い出すと、梶には『世の人たれもが待ち望む』文化文明の真実によった抑止力への希望を定着させられる。彼の作り出した善人による人類のための秀抜な武器、このようなものが望まれた。合理と非合理の霊妙に関わる直感の真実、そこには秀抜な統一性という神仏が存在する。神仏を元に森羅万象は回る。そうして、ここから生命も、また新発明も生まれ出たのである。(自由に生まれ出たものは神意に適わねばならない。)
 棲方は終戦の報を聞くと、口惜しさのあまり発狂死亡したという。しのびがたく耐えがたい思いで、しょせんは終戦の報に殉じていったと考えられる。負けるが勝ちの世界に誇れる日本の真実は、正に玉音放送の内容にあったのだ。人類の滅亡に拮抗なさった御威光の詔勅である。そうして、その終戦の真実に殉じたのは多大な人々であり、棲方もまたその一人であったのだ。
 戦後から今ではもうだいぶ年月が経った。しかし、それにもかかわらず、世界の情勢には今なお深刻な緊迫した不安が残っている。いや、ともすれば残っているどころではない。それゆえ、このことを鑑みては、棲方の行為も彼の微笑とともに、今度は戦禍を封じ込める文化文明の秀抜な抑止力にとって代わろうとしているのである。

〈生かし生かされ合う人類社会では、真と善美の喜ばしい追求にこそしょせんは和合がある。また、その人間の神髄も永遠の存在である。〉生中雅人

2016年2月24日 (水)

日本文学と詩短歌俳句 雅友の韻文から

 詩「若者」(『日本の夕映えに立つ』)

 この果てしない大地  よくあれかしと育まれし若者よ  どうして悔いることがあろう
青くなみうつ地上には  天空高く日が昇る  
 水辺の風にそよぐ葦  そは愛と誠の美なるもの  思慮深く力強くさえあろうとしている
そこに舞うは和らぎの光ならんか  またたくがよい無数の光を
 歓喜を秘めて命を生かせ  気高くも雲にまごうは
天地に横とう清麗深遠の彩り  それとも幽寂深遠の極みならんか

 短歌三首と俳句五句

 霧たちてけぶる光の池のべに睡蓮の花白く咲く見ゆ    (『日本の夕映えに立つ』)
 秋深き枯葉舞い散るこのごろの何をかまとう菊の花々   (『花の変幻』)
 山の端に夕日傾き湖の金色映す夢の浮き橋         (『同』)

 雨上がり流れる雲に夕日かな (…夕映えに立つ) 月影の冴え静まりて秋の夜 (同)         
 冬空に清麗たりや富士の山 (…変幻) 初春や凧上がりゆく子らの声 (同)
 何げなく父母に語らう月夜かな (…夕映えに立つ)

 他に『日本の夕映えに立つ』より

 筑波嶺に雪こそ残れ霞たち田園遠く菜の花の見ゆ
 麦青みひばりの声の冴ゆるなり雲間に高く舞い上がりつつ
 
 朝日さし水にけぶれる青田かな
 夕なごみ田植えすまして風薫る
 通りあめ木の芽にけぶる夕日かな 
               

2015年9月25日 (金)

横光利一『微笑』の秘技

「微笑」(昭23.1『人間』)は、殊に、数学的排中律(相反するものの判断があるときこれ以外の判断はありえない)の空虚な零と対峙して、直感真実の意味のある零を象徴描写する。この象徴の主眼は善人による人類のための新武器すなわち抑止力の完成途上のことである。(ただし、文人の梶は終戦直後にも回想をする。あるときから棲方には発狂が始まっていたと。「彼の云ったりしたりしたことは、あることは事実、あることは夢だったのだと思った。」)
梶は、新兵器を完成しつつあるという棲方の行動についてしばしば真実なのか嘘なのかと疑う。だが、棲方の美しい微笑にあうとその邪心が解消されてしまい彼のことを信じる。「怪しむべきことが何の怪しむべきことでもない、さっぱりしたこの場のただ一つの真実だった。排中律のまっただ中に浮かんだ、ただ一つの直感の真実は、こうしていま梶に見事な実例を」示す。
梶はさらに排中律に迷う。新兵器は祖国を救うのか、それとも悪魔の悪用するところとなるのかと。そうなると、梶は棲方の「ことなどどうでも良くなって」くる。文明の利器を越えた直感真実の零時点に立つ。「『その君の武器は、善人に手渡さなきゃ、国は滅ぶね。もし悪人に渡した日には、そりゃ敗けだ。』と、何ぜともなく梶は呟いて立ち上がった。神います、と彼は文句なく思ったのである。」
終局からも分かるように、神仏をもとにして森羅万象がめぐる。その万象は合理非合理なるものの霊妙な関わりからなる。そうしてそこから命も生まれでる。(発見発明もである。しかも、この自由に生まれ出たものは神意に適わねばならない。)それゆえ、棲方は感情理性の霊妙に関わる直感真実において、神(作中の、何かに驚き、何ものか見えないもの、人は空を見上げる、などの表現、この何・空も神の存在を容認する意に近く、「そうですよ。監理が大変です」は神の立場にふさわしい)に連なり、人類のための絶対な抑止力を完成させつつあったのである。(彼の行動の事実と夢においては)合理非合理の万象、ここに文化がなりたち、そうしてはじめて、そのなかに貴重な自然科学も生ずる。

《戦禍を封じ込める秀抜な文化文明の抑止力は天地の神仏にかなう。(生中雅人)》
《負けるが勝ちの世界に誇れる日本の真実【永遠的な精神力】は正に玉音放送の内容(口語訳付参照)にある。(茂木雅友)》

「・・・先ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス・・・加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ・・・」(終戦の詔勅)併せて(IT昭和天皇未曾有の大遺徳、湯川秀樹とアインシュタイン、マグネトロン)を参照。

そこで、『微笑』のことである。祖国の敗戦時にみせたアルキメデスのような棲方、彼は自らの行動からくる死の不安のうちに時には死を覚悟した。さらに後には、敗戦の報を聞くと「口惜しさのあまり発狂死亡したという」ことで、耐え難い思いでいわゆる終戦の誇るべき真実のもとに殉じていったと思われる。それだけにまた、梶からすると、戦後にあっては、棲方のあの美しい微笑が直感の真実として「世の人たれもが」待ち望む文化文明の秀抜な抑止力の意義を定着させるのである。(IT、作品の『微笑』参照)

2015年8月11日 (火)

憲法 人類の自衛

法は人や民族の営みをなりたたせるためのものである。いわば、交通ルールのようなものである。憲法のごとき法にあっても、自衛は必然的である。(戦争の惨禍などを封じ込める優れた、抑止力《文化文明》であり正当防衛である。)だが、自衛権の項が明記されていないとなると、集団的自衛権云々のごときは、その当然な環境情況を見通せぬかぎりまたそこにおける秀抜な自衛力をはかれぬかぎり、つまりこの条件が妥当かどうかを考慮して推定しえないと、自ずと賛否両論が生ずる。排中律を正すには軸を優れた正当防衛へずらす。
菊池寛の『形』は、間違った権威主義に転意しないかぎりでは、その真意が傑出している。影(内なるもの)と霊妙にかかわる優れた形は望ましいと思われる。『形』は武者姿のいかんが抑止力を発揮するという小説である。なお、寛には、傑作として罪ほろぼしの行為を描いた『恩讐の彼方に』がある。「敦盛最期」(『平家物語』)の系列。
世の中には重大な違反をしながらもこれを隠蔽したり拒否して闘争したりそうしてごね得をしたり、あるいは、罪を苦にして身を滅ぼしたりするケースがある。一触即発とか出来心とかもそのような罪の因となる。
国木田独歩に傑作『竹の木戸』がある。この意図は、もしそこでいわれるような木戸でなかったら、そうした盗みという悲劇が起こったであろうかと読者へ迫る。独歩によっていわゆる心理を左右する条件が看破されている。

《史観の真実からすると、終戦の詔勅の「朕カ百僚ノ・・・最善ヲ尽セルニ拘ラス・・・」には、憲法前文の「政府の行為によって再び・・・」の箇所が矛盾する。》
ことのしだいによっては、矛盾を容認したままにすると、それを口実にしてことがらへの軽視と欺瞞と不当批判がはびこる。昭和史等にあっては先ずは教育勅語・軍人勅諭・終戦の詔勅・戦前の憲法の現存を確認してみることではあるまいか。ブログの横光利一『微笑』の秘技も参照。
【 憲法記念日に寄せて
 憲法前文には、当時の極東委員会のご都合主義により、平和主義に徹した終戦詔書と矛盾したところもあり(大東亜戦争の原因が政府の行為にあったとする歴史的にも疑わしい箇所)、このために、わが国はともすれば他国から錯覚的な軽視・不当批判・ごね得・謀略を被ってきた。そのことは憲法としてはいわば致命傷である。また、9条2項には、公安が抑止力をともなうように、平和国家として戦禍などを封じ込める防衛の件が明記されるべきである。】こことの関連では、『花の変幻』千鶴子宛書簡、若輩『日本の夕映えに立つ』第四章宇宙と人類、など。

2015年4月 1日 (水)

横光利一『旅愁』、大岡昇平『野火』の深遠な神髄

 『旅愁』(昭12~21)は、神仏に関しては一神仏にして多神仏という立場をとり、キリスト教や仏教などの対立を認めない。どの宗教にも共通の一神仏、すなわち超越神がみいだせるはずだと考える。(旅愁第四編の、矢代の幣帛への思い、自宅で矢代らに語る東野の宗教観、千鶴子宛書簡)それはいわば純粋無垢な愛である。そのことを恋愛を通して描いている。さらには、一神にして多仏神の存在する森羅万象に美意識を展開しながらそうした平和主義を示唆している。神仏とは森羅万象におけるすぐれてありがたい合理非合理の霊妙な統一性やその諸相などをいう。そうして、終局にあっては原子核をひきあいにだし、どうしてそこの陽子どうしが安定しているのかといい、すなわち陽子と中間子などの関係性をして、宗教や民族融合などの秩序条件を暗示しているのである。
 大岡の『野火』(昭23~26)は、敗残兵が飢えの極限にあってもしょせん自ずと人肉には与れず、また、そのための殺人も許されないのを、リアルな新感覚で描いている。人間の食は天の与える生物だけである(「30 野の百合」と「39 死者の書」の終局「もし打ったのが、あの夕日の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人であるならばー」との結合による示唆)。『野火』にはレイテ島で敗残兵となった大岡の体験などがいかされている。つまり、彼によってテーマなどが追求されているのだ。
 大岡をとりまいた終戦前の教育や軍隊生活の精神は、立憲君主制として統率者が天皇であったとはいえ、それなりに当然であった。ただ、軍部はやむを得ない戦況に巻かれて独走したけれども。また、戦勝のためとはいえ今日からすれば気の毒で悲壮な面もあったけれど。
 学期の始めと終わりの式には必ず読み上げられた教育勅語、『教育は忠孝による道義国家を達成するにある。「之を中外に施して悖らず(人類共通の道)」』。軍隊が日々復誦させられた軍人の五箇条の勅諭、『一、軍人は国家のために忠節を尽くさねばならない。二、礼儀を正しくせねばならない。三、温和と愛敬により大勇を尚ばねばならない。四、信義を重んじなければならない。五、質素を旨としなければならない。「此五箇条は天地の公道人倫の常経なり」』。
 時の軍人の環境指針はこのことである。これは厳格に守らされた。大岡もしかりである。軍人はみな死を覚悟し死につくさいにも、「天皇(祖国)万歳」を唱えた。しかしながら、生の極限に陥った敗残兵の中には、軍人精神から逸脱をよぎなくされ、特殊なケースを引き起こした者もまれにはいたのであろうか。それにしても、人間性の根源をして、そうした逸脱に抗弁拮抗したのは日本文学の『野火』なのである。

《横光文学におけるマンダラ思想の契機は旅愁第四編の聖書解釈疑義の叙述と上海43の山口卓根宛書簡から読みとれ、さらに、千鶴子宛書簡がマンダラ思想による人類への平和主義を示唆する。人類にとってまさに歴史的で高大深遠な文学である。》                                                      

2015年3月25日 (水)

大岡昇平『野火』の世界的意義(価値・魅力)

『野火』は『孟子』『罪と罰』『こころ』などの系列にたつ。しかも、戦時の極限状況における、所詮人間行為の真実を特有の新感覚描写で表現したのだからいっそう意義深い。

注、『野火』が日文の世界的な意義を不滅にする存在価値、これを証左する資料は、茂木雅夫『日本文学の魅力 横光文学の位置』第五章近現代文学「小説の伝統」の終局である。すなわち、原文引用によった野火論である。『日本の夕映えに立つ』第四章7にもこの意義は叙述されている。

他の検索、旅愁と野火、大岡昇平野火、野火の意義、など。(茂木雅夫、日本文学者、作家のブログを見る。)

《姿形は天からの賜物。いきいきと命をいかせ、我思う故に我ありと。》(生中雅人)

『旅愁』の世界的意義(価値・魅力)と 横光利一文学

『旅愁』にみるマンダラ思想は古事記の創世記や大乗仏教曼陀羅などからの影響による。しかし、一神にして多仏神におけるその一なる共通神を人類の一神とみなして多仏神をこの変身と思考したのは秀抜である。(自宅で矢代らに語る東野の宗教観や矢代の千鶴子宛書簡など)人類への横光の平和主義を証左する。原子核というミクロコスモスの叙述によっても仏神、民族融合などの秩序性が暗示される。また、特に終局のミクロコスモスの叙述は作品自体を完成させた所以をなしている。しかも、横光特有のそうした具象描写にいたっては、それは小説としていっそう意義深いのである。なお、そのマンダラ思想をなす重要な契機は、第四編の新約聖書ルカス14「弟子の条件」に関する叙述である。「人我に来たりて云々」のその我の意を神としないならキリスト教は地球上に悲劇を撒き散らすという。併せて『上海』43での山口卓根宛書簡を参照。(『花の変幻』ー不滅の光『旅愁』)ただし、多神にして一神という考え方と似た思想を唱えた人物は他にもいる。宗教家でもあったラムネーらや文人のゲーテらもそうである。(『横光利一の表現世界 日本の小説』…ラムネーの宗教思想)この節を参照。
注、『旅愁』のマンダラについてその核心を特に証左する資料は、茂木雅夫『花の変幻』における評論「不滅の光『旅愁』 横光文学拮抗する時流放蕩へ」の五 千鶴子宛書簡である。上記の原子核の秩序条件は、『日本の夕映えに立つ』第四章3でも叙述されている。参考資料、ブログの「仏教 般若心経とマンダラ」、参考文献、『日本の小説 光と形』(増補版)の第六章『横光利一の表現世界 日本の小説』『日本文学の魅力 横光文学の位置』
横光文学、文化の自由な発揚を期した『紋章』の最重要な箇所を引用、《『花の変幻』(目次を数字で示す、小説2)》、空の美しさをとろした『旅愁』のそのことを引用、《同小説3》、評論史上最も画期的な「文字について」の内面形式説を引用、《同評論1》、『日本文学の魅力』近現代の評論、横光特有な昭和史観もみられる『上海』のその貴重部分を漢訳して引用、《同評論2》、昭和戦争の因縁にも放射する『機械』の象徴性を引用、《『日本の夕映えに立つ』第三章7》、『旅愁』のマンダラのことを引用、《同8》

他の検索、旅愁と野火、般若心経とマンダラ、憲法と人類の自衛、横光利一旅愁、旅愁の意義、微笑の茂木ブログ、など。(茂木雅夫、日本文学者、作家のブログを見る。)

《真実と善美の追求にこそしょせんは和合が生じる。教えられるも自らそれを実践実現するなら、その知のもたらす喜びと興味によって道は新たにも開けていく。》(生中雅人)

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